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上嶋爽禄園の沿革

ここでは上嶋爽禄園の沿革についてご紹介いたします。
わたしどもは初代、藤三郎の江戸時代より、
京都、和束町で長年お茶農家として誇りを持ってお茶を生産してまいりました。

上嶋爽禄園 総代式図

初代、上嶋藤三郎(江戸時代)

上嶋爽禄園は、江戸時代に先代の藤三郎(とくざぶろう:妻おます)が本家より分家し、その時に譲り受けた茶畑と水田を持つ和束の典型的な農家がはじまりで、約300坪の茶園の耕作を行っておりました。。

二代目、上嶋鉄造(明治時代)

二代目の鉄造(てつぞう:妻きくえ)は牛を飼ながら耕作地を維持しておりました。この時代は手作業によるお茶作りが主であり、手摘みによる収穫・製茶が行われていました、そのため規模拡大がなかなか進まなかった時代です。

三代目、上嶋喜之次(大正から昭和)

三代目、喜之次(きのじ:妻ますの)は、二代目鉄造の娘、ますのと結婚し家を引継ぐ、喜之次は大正から昭和にかけて、お茶の収穫方法を手摘みから手バサミを導入した収穫へ変更し、また製茶機械による製造をはじめ、少しずつ茶畑の面積が増やして行ききました。

四代目、上嶋重喜(昭和時代)

四代目、重喜(しげき:妻美佐子)は兵庫県但島から上嶋家へ養子に入り、その後、和束町の出身であった美佐子と結婚し、お茶農家としてがんばって行こうと強く決心しました。
昭和22年3月から茶畑作りをはじめるが、まったく経験のなかった重喜は、三年間、製茶技術を習得するために、古くからのお茶農家へ研修に入り、茶作りのイロハから経営まで、多くのことをその期間に修得をすることができました。
家にもどってから重喜は、山林を切り開き茶畑を作り、水田を茶畑に変え、井手町にも茶畑を作り、耕作面積を150aに拡大してまいりました。重喜は、お茶の町である、和束で、お茶で生計をたてられるようにと、お金を貯めるより茶畑を増やそうと考え頑張ってまいりました。

五代目、上嶋伯協(昭和から平成)

伯協(のりやす:妻玲子)は、父重喜が広げてくれた茶業を、昭和52年4月22歳の時より父の手伝いをしながら、茶作りとお茶の小売をはじめるようになりました。
高校の農茶業科を出て、お茶を作りはじめるのですが、自分がいいと思って作ったお茶が、消費者に受け入れてもらえない事を知り、生産農家は、実際に飲んで頂く消費者のほしいお茶を作らなければならないという事を強く思い知らされました。
そんな事があってオーダーメイドのお茶作り、安心安全なお茶作り、環境にやさしいお茶作りを目指す様になりました。そして耕作面積を拡大し、茶畑は和束にとどまらず京田辺市(碾茶、玉露)、加茂町(かぶせ茶)、和束町(かぶせ茶、煎茶)、井手町(自然栽培)に展開しております。
玉露から煎茶、抹茶、ほうじ茶、といろんなバリエーションのお茶を旬の間に収穫するために、早場から遅場までの茶畑を作って、摘採がスムーズに出来るようになりました。